上か下か



 湯船の中に身を沈めれば、小さい音も大きく響く。湯船の外のことが、はっきりとしない音に変わって伝えてくる。
 先輩がシャワーヘッドをこちらに向けなければ、水面に小さな波が立つこともない。自分が作るゆるやかなうねりに、風呂場の暖色の光が揺れる。
身を起して、耳に溜まった水が抜ければ、音は湿度の多い空気を伝わるものになる。鼓動の音は速く増えていたのに少し小さくなる。変わりに生まれるのは呼吸をする音。
「先輩はどのくらい息止めてられます?」
「さあ、計ったことないから詳しいのはわかんないかな。ちなみに人間の限界は20分だったかな?」
「ああ、そうじゃないかとは思ってましたが、先輩、やっぱり人間じゃなかったんですね」
 返事はお湯入りの風呂桶だった。
 風呂桶を投げてしまった事で泡が目に入ったのか、先輩は奇声を上げる。けれども俺が風呂桶をキープしているので、先輩は洗い流せずに身悶えている。
 慌てながらも蛇口をひねり、シャワーヘッドからはお湯が助けるように降り注ぐ。先輩の体から泡が流されていく。
「ほいっと、んじゃ交代」
 先輩は泡を流し切ったのを確認して、髪を簡単にまとめる。
「そういえば、先輩は下から体洗っていくんですね」
「ん、ま、だね。あれ? そうだっけ? んー、あんまし意識してないから、言われるとちょっとどっちだったかなってなるね。あ、犬猫なんかはノミが逃げないように上から洗っていくらしいから、ちゃんと首から下に洗って行けよ」
「ノミなんていませんよ!」
「じゃ、悪い虫」
「言われなくても肩から洗ってく派なんですけど、これからは足から洗うことにします」
「手は染めるなよ~」
 交代に湯船につかった先輩が気の抜ける声を放った。
「ああ、そういえば聞いた話なんですけれども、女のお子は肌を洗う時、手で洗うっていう嬉し恥ずかしむははな情報を聞いたんですけれども」
「それ見ればわかるっしょ、おれっちはスポンジ派」
「最初使わせてもらったときは泡立ちが良くて驚いたもんですが、今となっては慣れて新鮮さが足りないかな。手で洗うってのも物足りないんですが、先輩の手ともなれば別でして」
「タオルも悪くはないんだけれどもね、こう、お気に入りの肌触りってのに巡り合わなくってね。ちなみにそれにたどり着くのもだいぶかかったな」
「結構特別なもんなんですか?」
「うんにゃ、安もんだよ。試してみないと分かんないから手間だったってだけ」
 体を洗い始めれば、泡が口の中に入らないように無言になる。先輩も湯船につかったまま歌い出すことはないので水音と体を洗う音だけ。
 耳に泡がのると音が変わることを、先輩は知っているのだろうか。
 体に付いた泡を洗い流そうとすると、先輩に蛇口を止められた。目をつぶったままで固まっていると、湯船の湯を動かす音と声。
「あっつい、もう出る。入る順番逆にすれば良かった」
 せめてこっちが泡を流すまで待ってくれればいいのにと思いながら、肌が触れないように身をよじる。
「嫌ですよ、何だって俺がぬるいお湯で我慢しなきゃならないんですか」
「ここ、おれっちの家」
「滑らないように気を付けてくださいね」
 先輩が扉を閉めた音を確認して、蛇口から手を離し風呂桶へと伸ばした。湯を掬い、かける。水は激しく周りへと散った。
 先輩が入っていたからか、先ほどよりもぬるくなった湯船から上がると、風呂の温度が熱かったのが、体を芯からしっかりと温めたようで、湯冷めしそうな格好で先輩が横になっていた。
「何か着ないと湯冷めしますよ。着込んで風呂から上がったのにのぼせて倒れるっていうのもいいですけど。服を脱がす手間がある分おもしろそうですね」
「全裸で風呂場でのぼせてもそれはそれで楽しむ癖に」
 勝手に冷蔵庫を開けて牛乳を失敬する。先輩の背中にタオルを放り、そのまま口をつけた。
 唇ですべては受け止められなくて、わずかに顎を伝う。顎から先は空中で、行きつく先は先輩だった。
 奇声をあげた先輩を舌で綺麗にしたらおもしろいかとも思ったけれども、ティシュに出番を任せた。
「うん、あたりまえだけど、おんなじ匂いだね」
「牛乳の匂い? 身体が雑巾じゃなくてほっとしますね」
「違うって、いや、もはや違わなくなっちゃったけど、お風呂上りの匂いがおんなじだってこと」
「そうですね。……家に帰ったらまた風呂入りますよ」
「どういう意味だよ」