声を出せ



 空気の振動は音。震えるのどが鼓膜を震わせる。それをただの振動だとは捉えられない。
「うーん、えろいなー」
 思った感情をそのままに口に出すのが素直なら、今の言葉は確実に素直な意見だ。そんな素直な意見は、同じように裏方の素直な言葉を引き出した。
「をいをい、何言ってんだよ。だいじょーぶですかー。そっちの嗜好がおありならあたくしは退室いたしましょうか?」
「そ こは気を使わずに茶化せばいいんだよ。気なんて超常の必殺技に使うべきだって。だからって何か変な技とか使ったら、泣いちゃうから駄目だけどさ。いや、 さ、こうなんといいますか、大部分はありもしないんだけど、それでもなお漂うエロスに俺の心は惑わされ、ですよ。そもそもエロスって何みたいな?」
 少し煙草の匂いのするカラオケボックス。前の客の痕跡を残すように、片づけ忘れられた灰皿には三種類の煙草がそれぞれ一本ずつ入っていた。
  今回のカラオケは人数が少ないので、いつもよりも小さな部屋。気が付いたらどんどん人数が増えてしまう現象は発生しなかったらしい。そこそこに広い部屋に 大勢で、というのも悪くはないけれど、こういうのも悪くない。部屋がきちんと片づけられていればなお良い。そんなことは思っていても、おしぼりを散らかし ているので悪い客である。
「もしかして空気悪くてハイになってる? ここの窓って嵌め殺しだから、むしろ退室するといいよ。んでそのまま帰ってこなくていいから」
「カラオケに来てるんだからテンションなんて高い方がいいだろう? 学がないもんでスコアなんて全然読めないけれども、フラットはどこにもないってば」
 やっぱりハイなんじゃんと裏方が肘で突っついてくる。
 天井から吊られたスピーカーはもっと頑張った方がいい。それとも壁が悪いのか、ミューズの声が少し歪んで聞こえる。それでも十二分に満足できる。音楽室ではたくさんの曲を歌ってくれることはないけれど、カラオケであればこのとおり、聞いたことの無い曲も披露してくれる。
  ミューズの口から溢れてくるのは英語じゃないどこか外国の言葉。英語であっても多少はましってわけで、意味はさっぱりわからないけれども、音楽っていうの は音を楽しむものならば、歌詞は要らないのかもしれない。事実こうして満足しているわけだし。分かんないとちょっと悔しいけれどもさ。
 照明は落 とされて、文字の流れる画面が一番の光量を持つ。俺も裏方も座っていればミューズを見上げる形。画面の光に照らされ、陰影が付いたミューズはリズムに合わ せて体を揺らす。空気の振動は伝わっているから、ここに空気があるのは間違いなくて、ミューズが揺れ動けばその動きが空気を揺らして、俺と裏方を揺らすの だろう。もしくは声だけでも動いてしまえそうだ。
 歌の趣味について、この二人は対照的だったりする。歌はソウルだという裏方はとりあえず叫びた いらしい。一曲挟んだ後のタイトルは叫びやすい洋楽のそれ。ソウルなんかじゃなくて、どう聞いてもストレス発散だった。一緒になってストレスを歌い散らす のもいいけれど、そこにエロスはないものだ。むしろ裏方にはどこにもエロスがないので、もう少し磨いてもいいと思う。
 それに比べればミューズの方こそソウルフルに聞こえるってもんだ。ジャンルは特に決まってはおらず、節操なしに歌うのだけれども、魂が伝わる。そして人の魂が伝わるってことは、とてもエロチックなものなんだと思う。
  裏方につられるようにして入れた数曲前に入れたシャウト系の影響か、ミューズも疲れて来たらしく、サビの高音がぶれる。それはスピーカーから流れる音楽と は外れた音になっているのだが、そんなことも心地よく感じる。綺麗に歌うだけが歌じゃないんだ。そう思っていなければ次に歌うことなんかできなくなるし。
  歌い終わり演奏が残る中ミューズは腰をおろした。水滴は付いているけれども、もはやぬるくなった水を飲む。その時に水を飲むために動くのどと、先ほどまで 妙なる歌声を発するのどが同じものだと考えると、飲まれる水もカラオケボックスで出された甲斐があるというものだろう。
 そしてミューズからマイクを受け取る。このマイクはいたって普通の質の悪いカラオケ屋のそれなんだけれども、ミューズのあとに歌うとうまく歌える気がする。まあ気がするだけなんだけどさ。曲のイントロが流れだし、自分のコップについた水滴が流れ落ちた。