泣いた日



  朝一番の授業が終わった休み時間。授業の緊張はほぐされて、しかしまだ次に残るそれらに向けられる時間。朝を摂りそこなったものはエネルギーの補充をした り、中断させられた朝の話の続きにまた花を咲かせたり、次の授業で当てられるものは確認なんかをしたり、中にはさっきの授業中からずっと寝ている奴なんか も。
 そんな中で俺は近くにいる幽霊に言葉をかける。朝は遅れてきたので、学校に来て言葉を発するのはこれが初めてかもしれない。だからってそんなことはいつだって意識はしていない。今も昔もこれからもいつも。
「なあ幽霊、最後に泣いたのっていつよ? てか、そもそもお前って泣いたりすんの?」
「どうした。十字架にでも聞かれたか」
「いやちげーっていうか、まあそんなもんみたいなもんっていうか、似たようなもんなのか?」
 確かにこの質問は朝の出来事のせいだろう。だけどそれは幽霊に言うようなことでもないし、そもそも言葉にできるのかすらわからない。感情がそのままに、言葉に疑問を纏って飛び出た。できるのは疑問を持つことぐらい。
「俺がわかるわけないだろう」
「え、『が』?」
「そうだ『に』じゃなくて『が』だ」
  そう言うと幽霊は読んでいた本に目を落とした。さっきの授業中からずっと読んでいるのに、まだ一ページも進んでいない。見ていないということや、読んでい ないということもないとは思うのだが、それにしてもページが進まない。目は落としたまま、しかしページに手をかけることなく幽霊はつぶやく。
「最後に泣いたのはいつか、か。覚えているのか? そんなもの」
「あ? そんなものってひどいな。ま、覚えていたって幽霊になんか教えねーよ」
「そうか。なら覚えていないのか」
「あ? なんでわかんだよ」
「馬鹿もほどほどに。覚えていたって、と言っただろ。墓穴を掘るのは構わないが、くれぐれも俺を巻き込むなよ」
 幽霊は本の腹に手を当てるが、指は本を撫でるだけでページがめくられることはない。本の腹は日に焼けた色。多くの人の手がかかったであろう場所はその色を一段と濃くする。
「なあ、何してんの? 幽霊さ、本読んでんの?」
「そうだ、本を読んでいるんだ。見ても分からないからって聞くな。分からないからって聞くな、考えるな」
「じゃあどうしろってんだよ。それさ、面白い? 泣ける? なんかさ、泣いたことを覚えていないと人として駄目な気がしてきたからさ、幽霊さ、俺を泣かせてみてよ。本なんかあとで読めばいいじゃん」
 幽霊は本から顔をあげこっちを見る。指を挟み込み、片手に本を持つ。読み進められていないその一ページをまた読み進めることができるように。
「そうだな、ここに絶対に泣ける本がある。これを読めば確実に泣くが、そう聞いたあとで流した涙の価値は、聞かずして読んだ時にこぼす涙の価値と同じだと思うか?」
「難しく言うんじゃねえよ。とりあえず俺は泣ければどうでもいいような気がしてきたけど? 泣きたいときに泣ければ、そんなややこしいことはどうだっていいんじゃないのか?」
「感情は絶対値なのか、それとも比較なのか。ある点数に達するから感情として漏れ出すのか、それとも心の波というものは比較でしかなく、どんなに小さくても構わないのか」
「それ前半と言葉だぶってるぞ。強調?」
 こちらの指摘は気にせずに、幽霊はつらつらと語る。こういう風に難しい言葉をふんだんに使って語る奴って、自分が頭いいって誇示しているように聞こえてしまうのは俺の心が狭いからだろう。心が狭いと、泣けないのかもしれない。そう思うのもまた心が狭いからだろうか。
「そもそも泣くとは何か。泣く価値のある感情などというものはあるのか。この本はそう言うことがつらつらと書かれていてな。だから、絶対に泣ける。まるで作者が自己弁護するようでな、これで泣けないのならば解脱でもしてしまえ」
 指が引き抜かれ、幽霊はこちらへと本を投げる。勿体ぶったことを言ったのに扱いは軽いものだった。本は文庫本で軽かった。だから扱いは本の重さに比例するのかもしれないなんて思ってしまう。
 投げ渡された本を開く。白紙だった。本から視線をあげると、鐘が鳴ってもいないのに先生が入ってきて授業を始めたので、俺は幽霊に何も言うことができない。泣くこともできない。