不安です



 雲は薄い連なりをもって空の端に、流れているのかわからない速度で存在する。夏の太陽光線を遮るものは何もなくて、ひなたをあまねく焦がす。生徒玄関の前は建物が日陰を作ってくれればいいのだがそうでもなく、日を遮るものは何もない。
 道路と同じく俺も太陽の絨毯爆撃からは逃れられず身を焦がす。身も心もなんていうけれど、太陽なんかに心焦がれてなんかいない。冬になれば焦がれてやらないこともないけれど、今は熱量を欲してはいない。
 くだらない話をしながら靴を履き替え、くだらない話をしながら合流した。そこまではいつも通りだった。
 さっきまで隣を歩いていた先輩は、突然後ろを返り、何もないところを見てから様子がおかしい。
 俺 には何の気配も感じ取れなかったけれども、なにかあったのかもしれない。勘違いだったのか、気にしないことにしたのか、先輩は頭を振って歩きだそうとす る。けれども足はその一歩を踏み出すことはなくて、俺は空なんかを見てしまう。睨みつけたってその暑さが変わることはない。先輩が歩きだすこともない。
「先輩、どうしたんすか? 別に俺らの後ろを黒猫の家族が横切っていたりしなかったんでしょ?」
 ちなみに学校に住み着いてる猫は白く、皆が餌をあげるので見事に太っている。そこがかわいいとみんなに評判だ。きっと今頃はどこか涼しいところで寝ているのだろう。
「をわ? 後ろでも横切るっていうんかな?」
 たぶん言わないと思う。
「まあ、そんな言葉の問題はこの場合重要じゃなくて、大事なのは行動の問題ですよ。こんなあっついなか、じっと立ってても干からびるだけですよ」
「んー、だよね。よし、さっさと帰ろうか」
 そう言う先輩は不安な顔。口調にも不安を感じ取ることができる。不安だということはわかるのに、俺は先輩が何に対して不安を感じているのはわからないので解決策がわからない。それはちょっと暑さ以上に苛立つことだ。
「どうしたんですか? こんなに影は短いのに、縫い付けられでもしたんですか? それとも靴底があまりの暑さに溶け出して、アスファルトとくっついちゃいましたか?」
 もちろんそんなことはないのだってわかっている。でも、茶化していないとこちらも不安になってしまいそう。普段は不安なんかちっとも出さない先輩がそんな顔をするから、俺も不安になってしまうんだ。
「あはは、だよね。なんだろね? ねえ、なんなんだろね?」
 問いかけを投げかける先輩の顔は不安でひどくゆがんでいる。そんな先輩は俺をさらに不安にさせる。先輩ほど不安でいることが似合わなくて、こうも似合う人はいない。
「ほんとにひっついてんじゃないでしょうね? ひっぱったらとれますかねー?」
 不 安を覆い隠すように茶化したまま、先輩の手を取って引っ張ってみる。すると手にかかるのは余計なものなどなく、先輩一人分の重さだけ。あっさりと歩みは続 く。そう、続くのだが、なぜか手を離すと再び先輩の足はアスファルトとくっついてしまう。そして先輩の顔にははっきりと不安が浮かび上がるのだ。
「…………」
 先輩は俺と手が離れてしまうと、まるで隠すかのようにうつむいてしまう。顔が見えなくても、先輩がどんな表情をしているのかはあまりにもわかりやすすぎる。
「……先輩。いったい何が不安なんですか?」
 そんなことを言いながらも、手を放してしまえば俺にも不安がせりあがってくる。先輩と一緒に手をつないでいれば襲いかかってこなかった不安が、手を離した隙を見てにじり寄ってくる。
 先 輩は言葉を返すことはなく、頭を二、三度振るだけ。不安も一緒に振り払うかのように強く。頭を振れば顔は一瞬しか見えなくて、どんな表情をしているのかは わからない。不安顔を見れば、俺も不安になるけれど、見えないのもそれはそれで不安になってしまう。どうしていようと不安は俺たちを捕まえてしまうのだ。
「…………」
 先 輩は何も言わずに手を差し出してくる。そして俺も何も言わずに手を取る。不安になるから手をつないでいて、そんなことはお互い言わない。少し汗ばんだ手と 手が二人をつなぐ。手をつないでも不安は消えたわけではないのかもしれない。それでも確かに不安は薄らいで、歩みを進めることができる。
 生徒玄関からはまだ出たばかり。登校坂の先、校門までの距離すらも長いものに感じてしまう。じっとりと汗ばんだ手は暑さだけのせいではない。