天球より



「飛行機雲って見てるとなんだか楽しい気分にしてくれますけど、あれってよくよく考えれば空気中の水分だったり、埃や塵だったりするからあんまり綺麗なもんじゃないですよね。なんでそんなん見て楽しい気分になるんですかね?」
「少なくともおれっちは、そんなことを考えたからじゃなくって、脇で嫌なこと言われたせいで楽しい気分じゃなくなったけど?」
「それはすいませんでした」
 横を歩く先輩はさっきまで前を歩く人に自分の喉を見せ付けるようにしていたが、その視線は俺に向かっての非難めいたものになっていた。
 まだまだ赤橙にはならない空、その天球にはどこにも雲はない。けれども一筋の飛行機雲が少しずつのその白い線を延ばしていた。
「飛行機雲が長く残ると次の日は雨って言いますね」
「長くって、いつもより短いとか長いとかって誰が決めんの?」
「さあ? とりあえず天気予報で明日の天気が雨だって知っていたら『今日の飛行機雲はいつもより長く残っているぞよ!』とか言っちゃえばいいと思いますよ」
「それはちょっとずるだと思うぞよ」
「そうぞよか」
「ぞよの用法ってそれでいいぞよか!?」
 どうぞよかね? あ、区切り方かえると、どうぞ、よかね? になるから方言っぽい。うん、どうでもいい。
「まあいきなり変な語尾付けるのはもう止めにして、……あとは太陽や月に嵩ができると雨だって言うぞよ」
「直ってないじゃん! それよりかは夕焼けが晴れで朝焼けが雨とかのほうがポピュラーなんじゃない?」
「後はツバメが低く飛ぶとかですか?」
「とりあえずおれっちの前で低く飛ぶといいんだぜ」
「可愛がってもらえてますか?」
「まあ明日は晴れだけどね」
 空なんて飛べないので、会話の途中からまた上を見上げている先輩を、街路樹なんかに当たらないように誘導。ちょっと寄ったり離れたりぐらいでは反応してくれないので、直接服を引張ったり体を押したり。そんなことでは歩調は遅い。
 高空を飛ぶ飛行機の音なんかは当然聞こえなくて、耳に届くのは足音だけ。
「雨の日は空気に湿度が増えるから、遠くの音も良く聞こえるって言いますよ」
「んあ、たしかに水の中の方が音速いもんね。でも進む速度は遅くなるんだよね」
「雨の日の遅刻の理由はそれにしましょう」
 こ こは水の中ではないけれど、やっぱり歩く速度は遅くって、先輩を押したり引いたりしていると、歩幅は完全に勝っているはずの小学生にすら追い抜かれて、す こし気分が良くなる。小学生の男の子たちはランドセルを振り回しながら駆けていく。先輩の鞄は歩く歩幅が小さいので動く幅も小さい。
 さすがに鞄までは面倒看きれず、時々太ももに当たって邪魔になる。もしも空を歩ければ、祭りのときなんか少しは歩きやすくなるかもしれない。まあ、地面のない空なんかを人が歩いていればすっきりとしないだろうけど。
「でも飛行機なんかが飛んでる上空にも塵なんかがあるんだよねー。何か汚いってイメージはないけどちょっと不思議。あんなに高いと、何にもなさそうなのに」
「ま、たしかに。でも空から光が降ってくるぐらいですから、何にもないってのは難しいんでしょうね」
「それこそ宇宙空間にだって何がしかはあるわけだしねー」
「ダークマターに、まだ見ぬ真空中のエネルギーって奴ですか? 何もないけど何かある。まあ浪漫を感じなくはないですよね」
「ま、何にもないよりかは何かあったほうがいいかな。きっと『何にもない』のなかにあるのは浪漫じゃないかな?」
「『何にもない』に何かあったら『何にもない』じゃなくなっちゃいますけどね。いつか『何にもない』ってなくなっちゃうのかもしれませんね」
「ん~、それはそれでわかんないものがなくなっちゃったら浪漫なくなっちゃうよね」
 何にもないってことはわからないってことで、わからないことがあれば空想を膨らませても構わない。だから浪漫なんてものはそんなところに住み着くのだろう。
「ん~、あれじゃない、かな。飛行機雲ってさ、大空なんて届きそうにないところに届いたんだぞって証を残してるから好きなんじゃない。まるで希望の一つじゃん。何があるのかわかんない場所に雲ってわかるものを残してるわけだしさ」
 先輩は相変わらず空を見上げたままふらふらとした足取り。
 見上げた空の飛行機雲、その始まりがどこだったのか、もうわからない。